続こんぶの日記 KOMBU's diary from Sydney

カテゴリ:Life in Bangkok( 11 )




2013年ですね

2013年1月16日(水)

新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。


先月初めには、夫のおかあさんの3回忌があったので、夫ともにバンコクに1週間ほど滞在した。

3年前は、涙なみだの12月だった。しかし、今では久しぶりに家族や親戚が集合しても、みんなスマートフォンやiPad を片手に急がしそうだ。時が悲しみを癒してくれるというのは、本当だなと思った。

3回忌はどのように行われるのか、夫やおねえさんやおにいさんに聞いてみたけれども、誰もわからないということだった。おとうさんのお世話をしてくれている人たちが全部知っているから、まかせておけばよいし、言われたことをやればいいよ、という相変わらずののりだった。夫のおうちは、タイの華僑だけれども、お世話をしてくれている人たちは、東北タイ出身の生粋のタイ人だ。だけど、何人か看取ってきたから、華僑のしきたりなど、いろいろな手順は周知しているらしい。しかし、このお世話をしてくれている人たちがいなくなったら、誰に頼ればいいのだろうという点で、文化の継承は危機にあるような気もする。

最も、タイの華僑たちは、子どもたちを現地の学校に行かせたり、名字をタイ名に変えたりして、タイの文化に融合しようと努力してきた人たちらしい。タイという国も、多くの政治家が華僑であるし、華僑を受け入れる器があったといわれている。

シドニーに来てから、多くの中華系マレーシア人、中華系インドネシア人のナースなどにあった。話を聞いたところ、その土地で産まれても、華僑ということで未だに差別されて、大学や就職の際に不利になることがあるそうだ。今でもたくさんの華僑の人たちが、マレー人優遇政策などで差別を受けて、commonwealth のオーストラリアやイギリスの大学に進学し、そこでの就職を目指すということだ。

私が出会った中華系インドネシア人は、インドネシアがイスラム国で、華僑にとってはすごく暮らしづらいのだよ、と話してくれた。確かに、イギリスやオーストラリアで教育を受けたという中華系マレーシア人の助産師が、私が働く病院にも何人かいる。夫とそのことについて話したことがあるが、夫は、タイでは華僑への差別はないと思うよ、と言い切っている。

そんなことを考えているうちに、たくさんのお坊さんがおうちにやって来て、あっという間にお経を読み始めた。おにいさんが、号令をかけて、みんなiPadから手をはなして、手と手を合わせた。


2013年が素晴らしい年になりますように。


b0175015_21395422.jpg

[PR]



by gonzalesK | 2013-01-16 21:43 | Life in Bangkok

ごはんですよ

2009年12月18日(金)

お葬式の最初の3日間、嫁に課せられた仕事があった。必然的に、唯一の嫁である私に白羽の矢があたった。早朝に、おかあさんが使えるようにと、洗面器に水を入れタオルをしぼり、歯ブラシに歯磨き粉をつけ、棺桶の脇に準備する。また、お寺が用意してくれた朝食をお祈りを捧げてから、テーブルの上に置く。そして、棺桶を3回ノックし「ごはんですよ、おかあさん」と言う。

私は、お寺の小僧さんが、オリエンテーションをしてくれた通りに、仕事をこなしていった。しかし、私はタイの夫の実家で家事をしたことがなく、ごはんの準備もしたことがない嫁である。おかあさんへの最初で最後のごはんの準備が、おかあさんが棺桶に入ってから、というのは何とも皮肉な話である。

数十年も前、タイの華僑の家に嫁いだ日本人のお嫁さんは、家族と食事をさせてもらえなかったという話を聞いたことがある。世界中で多くのお嫁さんは、苦労をしているのに違いないと改めて思った。もっとも夫は、私だけに仕事を課すのは心配だから、と3日間つきあってくれたのだけれども。

さらに、お葬式の後半は思ったよりも過酷だった。ある日の午後には、仏教版ゴスペル合唱団の人たちが来てくれた。この人たちが、歌と共にお祈りしてくれたのはいいが、おかあさんの子どもたちや孫、嫁たちは、歌と共にチベットのスクワットのようなお祈りをしなくてはならなくて、これには汗だくになった。

ある夜は、大量の金を模した折り紙と、模型の家を燃やした。これは、おかあさんが天国でお家に困らないように、と行われる儀式らしい。めらめらと燃える火の粉を見て、中学生の甥っ子は、「紙は森林から作られる訳だし、これ、地球温暖化に関係しそうだね。」と言っていた。確かに、中国の人口と昨今の気候変動を考えると、簡素化したお葬式のあり方も再考する時期なのかもしれないと思った。

ある日の夜は、橋の模型の上をお坊さんの後について、ぐるぐると歩き続けた。橋の前と後ろに、容器があって橋を歩くたびに、硬貨を入れていく。橋は、天国への架け橋を模型した物で、おかあさんが迷わないように、お坊さんとその子孫たちが導いていくものらしい。

お坊さんは、硬貨を入れていくことの意味を、「産まれてくる時も、逝く時も、私たちは何も持っていないし、持っていけない。残されるのは、残された人々の中の、あなた方がした良い行いの記憶だけです(だから、お寺に寄付してね)。」と話してくれた。

そして、7日間続いた夫のおかあさんのお葬式は、火葬で終わる。私は、おかあさんが煙になったのを見て、初めて涙が出た。みんな泣いていた。泣いている私たちに、弔問客の一人が、「煙がほとんど出ていなくて、澄んでいる。これは、おかあさんは心配事が少なく逝ったということですよ。心配事が多いと、煙は黒くなるのよ。」と教えてくれた。

お葬式を終えた後、私は、何かの強化合宿を終えたような一種の達成感を覚えていた。 私たちは、バンコクの空にひろがる煙突の上の煙を、いつまでも眺めていた。
[PR]



by gonzalesK | 2009-12-29 08:16 | Life in Bangkok

purelude - 序曲

2009年12月18日(金)

タイのお葬式は、7日間続く。

最初の3日間は、夕方にお寺で弔問客を迎え入れ、挨拶をしたり、お坊さんのお経を聞きながらお祈りする。それが延々と3時間位続く。お坊さんの前で、床の上に直接座りお祈りをするのは、白装束のような格好をした夫のおかあさんの息子、娘、孫、その嫁や婿だ。座る順番は、もちろん長男を筆頭に、そこから孫まで、娘や嫁は一番後ろ。

初日は、お坊さんのお経を聞きながら、夫のおにいさんはぽろぽろと泣いていたが、3日目にもなると、「こんぶ、この伝統は too much だよね。僕はもう膝が痛くて。」と早速愚痴っていた。

まったく日本とは違うタイのお葬式。私は、ある程度の収益を必要とするタイの寺院と、中国仏教が結びついて、一大ビジネスになったのに違いないと勝手に思っていた。夫のおねえさんも、2日間で終わる香港のお葬式とは訳が違う、私もまったくわからないけど、私のしているようにすればいいから、中国の文化では女性は“nothing” なので、列の後ろで同じようにしていれば良い、と言ってくれた。

夫のおねえさんは、札束をそのままポケットに入れて歩くような人で、声が大きく一見威圧的だが、竹を割ったような性格なので親しみやすい。そのお姉さんが、ひとつだけ教えてあげる、と教えてくれたことがあった。「お祈りをしているときに、蛾(ガ)が来ても、それを叩いたり、殺さないようにね。おかあさんが、蛾になって様子を見に来ているのかもしれないから。」

お葬式の3日目、夫のおねえさんの息子さんと娘さんがロンドンから到着した日、その日もいつものように、お経を聞きながらお祈りをしていた。そうしたら、大きな蛾が、私たちの頭上をくるくるとまわって、また窓の外に飛び立って行った。

式が終わった後、おねえさんは、「蛾が来たのを見た?今日は、子どもたちが到着したから、おかあさんが孫の様子を見に来たのかもしれないね。」と、嬉しそうに話した。私は、おねえさんの話を聞きながら、そうだねえと頷いた。

バンコクの夜は涼しいし、この程度だったらがんばれるかもしれないと思っている内に、お葬式も折り返し地点になった。しかし、これは序曲に過ぎなかった。つづく。
[PR]



by gonzalesK | 2009-12-29 07:23 | Life in Bangkok

家に帰りたい

2009年12月13日(日)

12月11日の夕方、 夫のおかあさんが、 夫のおとうさんや実兄、夫やその兄姉などに囲まれながら、静かに息を引き取った。享年80歳だった。

おかあさんは、中国の広東省に生まれ、中国の共産党に家族の全財産を奪われたのをきっかけに、夫のおとうさんとともに、ビジネスチャンスを求めてバンコクにやって来た。当初は、同胞の華僑とともに、チャオプラヤー川沿いの長屋暮らしをしていたという。波瀾万丈の人生だったと思う。

おかあさんは、ずっと「家に帰りたい、家に帰りたい」と言っていたのだが、それはかなわずに最期を病院で迎えた。

死が、生活の延長にあるものだとすれば、最期を家で過ごしたいと思うのは、ごく自然なことだと思う。しかしバンコクには、palliative care (終末期の苦痛緩和医療)の概念も、ほぼ無いに等しい。家族の皆が、何とかおかあさんが家に帰れる方法はないかと、色々と準備を始めていた。しかし、医師の一言一言に翻弄され、結局あきらめざるを得なかった。バンコクでは、患者が家で最期を迎えるのは、一旦病院に入院してしまうと難しいようだった。

バンコクは、貧富の格差が激しく、恐らく病院に入院し、治療を受けるお金が無い人々は、自然に家で家族に看取られながら亡くなっているのかもしれない。しかし、中途半端にお金があると、より良いケアを求めて私立病院に入院し、時に過剰な“治療”を受けて、そのまま帰れなくなってしまうのだろう。

大学院のときに、病理学の先生が、「病院に入院したら、なかなか死ねませんよ。すっきり死ねるのは、今では自殺、交通事故、血管障害(脳卒中や心臓発作)くらいですよ。」とはっきりと言っていたのを思い出す。

タイ、特にバンコクでは、これから日本と同じように高齢者の医療問題、介護問題が顕在化するだろう。いつでもどこでも、現象が政治化する前に、人々は大きな問題を認識している。

日本のお坊ちゃん政治家が、おかあさんから資金提供を受けた事件に対するコメントを、英語ニュースは、“I had no idea what was going on” と翻訳していた。幼稚すぎて、聞いている方が恥ずかしくなったが、きっとこういう人たちには、庶民が抱えている生活の問題がわからないのだろうなと思う。

そんなこんなで、いろいろな思いが駆け巡った日々だった。

夫という人を、この世に産み落としてくれたことに感謝しつつ、おかあさんの冥福を心から祈りたい。
[PR]



by gonzalesK | 2009-12-13 17:07 | Life in Bangkok

プミポン国王の誕生日

2009年12月5日(土)

タイの王様、プミポン国王の82歳の誕生日。町は、王様への敬愛を表すピンク色のシャツを着る人で賑わう。

もともとは、王様への敬意を表する色は黄色だった。しかし、タイの現政権を支持する黄色派と、それに対抗するタクシン派の赤色は、昨今の情勢で、政治的な“色”になってしまった。それに代って、ピンクが王様の色として使われるようになったらしい。

タイの王様の誕生日は、私の誕生日でもある。夫の姉が大きなケーキを買ってくれて、ろうそくを6本ともし(年齢から30を引いてくれた)、みんなでHappy birthday を歌ってくれた。その日の夜、夫は、私のリクエストであるバンコクのおいしいお寿司屋さんに連れて行ってくれた。私たちも、ピンク色のシャツをそれぞれまとい、魚だったら白ワインだね、とわくわくしながら目当てのレストランに向かった。バンコクに来て早2週間、私たちは、全くお酒を口にしてなかったからだ。

レストランでは、枝豆と新鮮なホタテ、そしてドリンクメニューのリストから、適当な白ワインを夫が選んだ。しかし、店員さんが、「今日は王様の誕生日なので、どんなお酒もお出しすることができません。」と当たり前のように言った。周囲を見渡すと、確かに、ピンク色にドレスアップしたカップルたちも、アイスティーなどを口にしている。

私は、お祝い事である王様の誕生日に、町でお酒が飲めないことに驚いた。加えて、シドニーでの生活が長い夫も、これを知らなかったようだ。郷に入れば郷に従え、私たちはしぶしぶと緑茶を頼んだ。緑茶とメインコースのお寿司、楽しみにしていたバンコクでの誕生日ディナーは、御徒町の寿司屋で食べるランチのような雰囲気になってしまった。

病院では、夫のおかあさんが静かに、時に苦しそうに眠っている。タイは、まだまだターミナルケアが普及していない第3世界だ。一昔前に日本の病院でおこっていたような、「これ以上どこに向かうのだろう」と疑問に思う検査や治療が、毎日、夫のおかあさんに施されていく。夫を含め、家族の誰もが疑問を持ちながらも、その決定権は“家父長”にある。

しかし、本日をもって、これ以上積極的な治療をやめよう、おかあさんをもっと苦しめることになる、と決断をしたのは、夫のお姉さんだった。私は、夫のお姉さんの勇気のある意見に賛成しながらも、自分の誕生日と夫のおかあさんの命日が重なったら、どうしようと一瞬思った。しかし、神様はそこまで意地悪ではなかったようだ。私の心配事は、現実にはならなかった。私は、日付が変わったのを確認して、2009年の誕生日を終えた。
[PR]



by gonzalesK | 2009-12-08 00:13 | Life in Bangkok

バンコクのふぞろいな林檎たち

2009年11月27日(金)

Mother earth - “母なる大地” とはよくいったものだと思う。

バンコクに来る前々日に受けた、英語のスピーキングのクラスのテーマは、art - 芸術。芸術は理解するものか、感じるものかなど、先生がみんなのを意見を引き出していった。さすが、ヨーロッパ出身の同級生たちは、芸術を頭で理解しようとしているのがわかった。もともと、現象を分類することを好む文化的背景があるのかもしれない。

クラスで日本人は私一人。先生はいつものように、「こんぶさん、芸術について思うことはない?何でもいいよ。」と私に尋ねた。私は、「少し奇妙かもしれないけれど、私は日本で助産師になってから、すべての芸術は胎盤に通じると感じるようになりました。胎盤がすべての原点というか。」と日本を代表して話した。

太古の芸術にも、お産をモチーフにしたものは多い。ヨルダンの南部、ワディラムに存在する2000年前の壁画も、アボリジニの絵画やボティペインティングも、何百年も前に神社に奉納された絵馬も、妊婦や授乳器官をモチーフにしたものがある。極めつけは、自然の芸術だと思う。どんな木の根を見ても、土から栄養を巧みに吸収する姿は、胎盤に似ている。さらに、木の幹はへその緒のようであり、木になる果実は赤ちゃんのようだ。時期が来て成熟したら、木から果実が落ちるように、自然に赤ちゃんは、この世にやって来る。

これは、先輩の助産婦さんに聞いた話なのか、自分で何となくそう思うようになったのか、忘れてしまった。助産師として働いていた頃、お産の後落ち着いたら、胎盤を産婦さんに見せていた。そして、「胎盤を見ると、赤ちゃんは、りんごの実のように熟して、この世にやって来たのだなと思います。」と説明していた。もっともお産が多かったときは、胎盤が3つくらい並んでしまったものだった。

クラスの中で、日本を代表する胎盤芸術論は、さらっと流されてしまった。しかし、クラスの後、ブラジル人妊婦のイザベルが、「こんぶの胎盤の話を聞いて、私も胎盤を見たくなった。シドニーの病院でも、お産の後、頼めば自分の胎盤を見せてくれるかな?」と聞いて来た。私は、もちろん、自分の胎盤なのだから見せてもらった方がいいこと、胎盤は重要な臓器であることを話した。また、日本では昔、産後の滋養強壮のために、胎盤の一部を食する文化があって、今でもそれを好む人もいることを補足して説明した。

イザベルは、大きな目をきらきらさせながら、「じゃあ、私も胎盤を見せてもらうだけじゃなくて、家に持って帰ろうかな?冷凍庫で凍らせて、“ダーリン、今日のディナーは胎盤よ!”ってしたら、おもしろいねえ!」と言い、大きなお腹を抱えながら笑った。

バンコクで闘病する夫のおかあさん - 何十年も前に、大きなりんごを4つ、この地に産み落とした。みんな、今ここに集合している。
[PR]



by gonzalesK | 2009-11-28 00:03 | Life in Bangkok

強いひとびと

2009年11月22日(日)

男性は、お産の痛みに耐えられないというのは、よく知られた話だ。女性は強い、というのは世界の共通語かもしれない。オーストラリアは、特に公職に就いている女性も多く、オーストラリアに住む女性、または女性性を併せ持つ人たちは強いなあ、と思わされる場面に出くわす。

バンコクの夫のおかあさんの具合が、いよいよ良くないということで、1週間前にバンコクに向かった夫を追いかけるように、シドニー在住の夫のおにいさんとともに、バンコクに飛んだ。

空港の出国管理では、携帯電話を使っていた女性に対して、女性警官が、「ここは携帯電話使用禁止、罰金です」と詰め寄っていた。荷物のX線検査では、列を並ばない柄の悪い白人男性に、女性係員が、「あんた、列を並ばないで、並んでいる人に失礼でしょう、あやまりなさい!」と大きな声で怒っていた。こういった女性たちは、毅然とした態度で公務を執行しており、PMSでいらいらしているといった感じでは全くない。

飛行機に搭乗し、離陸後も、前の座席に座った人が、窓を開けていた。紫外線がたっぷりの日差しが、後ろの私たちの席まで差し込んで来て、眠るに眠れない私とおにいさん。おにいさんは、毅然とした態度で、「窓を閉めてくれませんか?私たち眠りたいのだけれど。」と窓の外の風景を楽しんでいた白人女性に言い切った。

女性が、「初めての海外旅行だから、外が見たくて。」と言い返すと、おにいさんは、「初めてなら教えてあげるわ。フライト中は、窓を閉めるのが常識なの。ほら、窓を開けているのはあなただけでしょ、他の人を見てみなさい。ふんっ。」と締めくくった。女性は、おにいさんに言い返す言葉もなかったようで、音を立てて、大げさに窓を閉めた。

バンコクに着いた私たちは、早速病院のおかあさんに会いにいった。ここでも、ひとりの女性が最後の力を振り絞って、静かに病気と闘っていた。
[PR]



by gonzalesK | 2009-11-24 01:38 | Life in Bangkok

The day of "No more Hirohima"

2009年8月6日(木)

今日は広島の原爆記念日。夫のおかあさんが入院している病室のテレビで、夫と夫のおかあさんと広島の平和記念式典の様子をニュースで見た。夫のおかあさんは最近痴呆症もあり、式典については何も言わなかった。

もし、おかあさんが痴呆症を患っていなかったら、この式典の様子を見て何と言っただろう。第2次世界大戦のときに、おかあさんの一家は中国に侵攻してきた日本軍に財産を奪われた。彼が子どもの頃、おかあさんがそう彼に話したという。それでもおかあさんは、私たちの結婚を祝福してくれた。

そんな歴史の壁を私たちはひとつ乗り越えたが、これからも乗り越えなくてはならない壁は厚い。国際結婚は、からだを張った究極の異文化理解のひとつだ。バンコクに来て3週間、タイ語と英語と広東語と潮州語(広東省地方の方言)が飛び交う中に暮らして、そろそろ私も適応障害の寸前である。

中国では昔、ある程度の財力がある男は妻を2人めとることが日常的にあったようだ。夫のおかあさんのおとうさんにも、夫のおとうさんのおとうさんにも妻が2人いたというから、とにかく兄弟姉妹の親戚が多い。夫も親戚の名前を覚えるのは諦めていて、私にも「おばさん、おじさんと呼べばいいから」と助言を与えた。

具合の悪い夫のおかあさんを見舞いに、香港からやって来た“おばさん”2人と“おじさん”は、英語が堪能だ。彼らは、バンコクでショッピングや外食も存分に楽しんでいる。この人たちは、香港独特の資本主義経済の恩恵を受けてきたのだなと感じる。

一方、広東省のいなか街からやってきた“おばさん”2人、と“おじさん”は英語を全くしゃべらない素朴な人々だ。ショッピングや外食よりも、庭で中国茶をすすりながらのおしゃべりや団らんを好む。おばさんの一人は「山口百恵」が好きだと漢字で筆談し、中国でヒットした「血疑」(赤いシリーズ?)という山口百恵出演のドラマの主題歌を歌ってくれた。

私は日本にいたときはもちろん、シドニーでも残留農薬の問題で中国産の食品はなるべく避けて来た。しかし、ここではそんなことは言っていられない。中国からの数々のおみやげ、桃やさくらんぼ、ピーナッツや豚の皮を干したお菓子など、中国産であふれている。この超高齢化家族の中の「若者」の私は、それらを勧められるままに頂かなくてはならない。そして中国語で「おいしいですね!」と言い、ゲストを喜ばせることがひとつの日課となっている。

ストレスとともに私の身体に蓄積されていく中国残留農薬。気にならなくもないけれど、夫のおかあさんもおとうさんも共に80歳だし、夫のおばあさんは98歳まで、おじいさんは90歳まで生きたというから、あまり気にしなくてもいいか、と思いつつ豚の皮をかじっている。

b0175015_20324931.jpg
[PR]



by gonzalesK | 2009-08-06 23:13 | Life in Bangkok | Comments(0)

こんぶおばさんの日記

2009年7月28日(火)

老人ホームで働いている看護師の知人から、「赤ちゃんからはエネルギーを与えられるけど、老人にはエネルギーを奪われるよね」と聞いたことがある。そのとき、なるほどなと思って苦笑いをしたのを覚えている。そう言い切った彼女は、一児の母である。

確かに、赤ちゃんはエネルギーの固まりだ。特に、産まれたての赤ちゃんのにおいは、私たち助産師を元気にしてくれる。これを毎日のようにかぐことができるのは、私たちの特権だろう。また多くの助産師は、この“産まれたての赤ちゃんのにおい中毒”に違いない。

産まれたての赤ちゃんのにおいは独特だ。はちみつのような、キャラメルのような、言葉では表せない、でも羊水や血液のにおいではないあまいにおい。それは生後3日目ごろには不思議と消えてしまう。 赤ちゃんが宇宙人から人間らしくなったころに消えてしまうので、あの世とこの世の間の人間しか発せられないにおいなのかもなと思ったこともある。

この赤ちゃんのにおいは、どこから来るのだろうかと夫と話したことがある。わずかな生化学の知識を持つ夫は、赤ちゃんのにおいのもとはATP(アデノシン三リン酸)かもね、とまじめに分析した。確かにATPはエネルギー物質、赤ちゃんからはエネルギーを与えられるわけだ!私は、夫の根拠のないこの仮説を不思議と信じている。

バンコクの夫の家に来てから、私が一番若者、という高齢化の中で2週間過ごして来た。訪ねて来る夫の両親の親戚となると、これもまた高齢だ。こんな環境の中、夫の姉の子どもたちがやって来た。中学生の彼らも十分エネルギーに満ちあふれている。赤ちゃんほど若くはないけれど、やはり若いものはいいなとしみじみと思うこんぶおばさんであった。
[PR]



by gonzalesK | 2009-07-29 01:56 | Life in Bangkok | Comments(0)

雨期のバンコクから

2009年7月24日(金)

なぜだか私は、タイと縁が深いと勝手に思っている。

タイの現国王、ラーマ9世と私は誕生日が同じだ。タイ人にそれを話すと喜ばれるので、つい自慢してしまう。タイの王様は働き者で国民から親しまれているから、誕生日には大きな花火もあがる。また、王様のおかあさんは看護師だったそうだ。

20歳のとき、初めて踏んだ海外の地もバンコクだった。そのころはパキスタン航空がマニラ経由で飛んでいた。アルバイトで貯めたお金で格安航空券を購入し、バックパックを背負いバンコクへと向かった。飛行機内で初めて聞いたイスラム教のコーランに合わせて、旅の無事を祈った。

バンコクに初めて降り立ったとき、むっとする独特の熱気と、行き交うトュクトュクの排気ガスのにおいと喧噪に、なぜだか胸が高鳴ったのを覚えている。これを筆頭に、インド、ネパールなどの南アジア、カンボジア、ベトナムやラオスなどの東南アジアの旅の拠点はいつもバンコクだった。

社会人入学した大学から、半年間タイ北部の都市にあるチェンマイ大学に留学した。ここでみっちり勉強したはずのタイ語は、今ではすっかり挨拶程度になってしまった。このときに、タイ西北部のメソットという街にあるビルマ難民のための診療所でインターンをさせてもらった。当初タイといえばカンボジア難民、という印象があった。実はビルマ難民の問題というのが、歴史的、政治的にも経済的にも非常に奥深いものであることを学んだ。

思えばこの大学で、“リプロダクティブ・ヘルス/ライツ”という言葉に出会った。そして、ビルマ難民の診療所で望まない妊娠や性暴力など様々なリプロの問題を抱えている女性たちと出会ったのは本当に衝撃的だった。人権問題は健康問題だと理解せざるを得なかった。リプロと関わっていくのなら、いつか絶対助産師になろう、と思ったのもこのころだった気がする。

それからいろいろあって、もうタイとは関わることはないだろうと思っていた。しかし縁があったのか、出会った人がタイ人で、まさか結婚するとは思わなかった。

“縁とは円である”と誰かから聞いたことがある。そんなことを実感する日が、いつかやって来るのだろうか。バケツをひっくり返したような大きな雨音を聞きながら、そんなことを考えていた。バンコクの雨期はまだ明けそうにない。
[PR]



by gonzalesK | 2009-07-25 14:08 | Life in Bangkok | Comments(0)

シドニーの青い空と広い海のふもとで繰り広げられる日常をこんぶ風味でお伝えします
by gonzalesK
プロフィールを見る
画像一覧
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

最新のコメント

kokeko さん!そう..
by gonzalesK at 10:11
あらら、お熱だったの~(..
by kokeko-2015 at 23:09
シドニーの美術館はゆるー..
by gonzalesK at 15:03
どんな絵なのだろうと、調..
by kokeko-2015 at 09:29
こけこさん、なるほど〜k..
by gonzalesK at 17:46
ほぉ。。。(←お友達の言..
by kokeko-2015 at 22:22
こけこさん、コメントあり..
by gonzalesK at 09:42
おはよう(笑) シドニ..
by kokeko-2015 at 23:13

最新の記事

The Year of Ro..
at 2017-02-09 21:21
HIROMI THE TRI..
at 2016-06-16 12:22
花冷え
at 2016-06-01 15:11
あっちの桜、こっちのジャカランタ
at 2016-05-18 21:22
Language of dr..
at 2016-03-15 21:06

画像一覧